ー お父様が以前監督をされていた盛岡大学附属高校ではなく、光星学院を選んだ経緯を教えてください。
澤田:盛岡大学附属か光星学院、もしくは沖縄水産高校の3択だったんですよ。岩手は雪が多くて大変なので、年中野球ができる沖縄にいきたい!っていう浅はかな考えをもっていました。あとはYouTubeで沖縄水産のインタビューを見て、面白いなって思ってて。でも事情があって行けなくなってしまったんですよね。
そういう背景から、父親がいる盛岡大学附属か、東北なら光星学院かなって思っていました。
でも母親が、「親の七光りでベンチ入ったら何か言われるよ」とか、「下手なんだから県外で修行してきなさい」と言ってくれて。父親は、僕が盛岡大学附属に入ったら一緒に甲子園に行こう言ってくれていたんですが、母親が県外への進学の選択肢を与えてくれたので、すごく感謝していますね。
盛岡大学附属に行ってても、ソフトバンクの松本裕樹選手や、ヤクルトに行った杉山選手とかがいたので。僕が試合に出られたかは分からないですけど、チームとして甲子園には行ってると思うので。どっちにいっても楽しい人生が送れたかなと思います。
ー 光星学院では寮生活だったと思うのですが、どのように順応していったんですか?
澤田:まず、同期の仲間とたくさん話しました。携帯も夜の9時以降使えなくて、親にも連絡ができなかったので。仲良い人を10人作って毎日話してました。
みんなホームシックだったと思うんですけど、チームメイトがいたからなんとかやってこれました。毎日部屋に行ったり来たりしてました。
ー 同期の皆さんと仲が良くても、レギュラーを掴むためには、ライバル関係が必要だったと思います。甲子園常連校でどのようにアピールして、レギュラーになったのですか?
澤田:自分のレベルと先輩の様子を見て、三塁手の2番手、3番手にも勝てないなって思っていたので、1年生の時は試合に出られないって分かって諦めていました。なので、翌年どうやって出るかを考えていました。
光星学院って3軍制なんですよ。僕はずっと2軍にいたんですけど、2軍から1軍に上がるには、コーチの推薦が必要で。推薦してもらった練習試合で結果を出せば継続して試合に使われるようになるんですよ。
なのでまずは2軍のコーチにアピールしようと思って、毎日練習後ティーバッティングをしたり、なんでも質問したりしてました。そのコーチが僕を推薦してくれて、そこで結果を出して、試合に出られるようになったって感じです。その縁もあって、コーチ陣の皆さんとは今でも仲良くさせてもらっています。
ー レギュラーを掴んで、キャプテンとしてチームをまとめて…。良かったこと、大変だったことはなんですか?
澤田:大変だったことは、みんなで同じ目標設定ができていなかったことですかね。当時は部員が約170名と人数が多いので、みんなが同じ方向を向いていれば良いんですけれど。それができていなかった。そこでキャプテンの責任を感じました。
例えば、ピッチャーでも10番手や15番手もいるので、正直全員が甲子園で優勝するという方向を向けないじゃないですか。そういった、ちょっと視座が違う方向になっている選手をまとめるのが大変でした。人として尊敬できる部分も多いけど、我が強い部分も多かったりしたので。膝を突き合わせて、褒めて褒めて、一緒に練習してっていうのをやっていました。大変だったけど、キャプテンだからやるしかないし、単純に頑張って欲しいっていう気持ちがあったので。それらをやっていたから、皆からの信頼を得られたのかなって思います。
ー 3年生で、選手として念願の甲子園出場。甲子園は澤田さんにとってどういう場でしたか?
澤田:開幕戦にレフトで出場したんですよ。超満員だったので、一球ボールを投げるだけでワーって歓声がして。風のせいでゴミが流れてきて、それを拾うだけでも歓声が上がるので。勘違いしちゃいますよね(笑)
小学校から甲子園行きたいっていっていたような、夢の舞台なんですけど、いざ甲子園に行くと緊張よりも興奮しちゃって、楽しい方が勝ちましたね。みんな緊張してなかったですし、心の底から楽しそうでした。
ー 高校時代は2年生ベンチ外、3年生で選手としての出場との事ですが、心境などの違いについて教えてください。
澤田:正直、ベンチ外でもずっと「キャプテンやりたい」って言っていたんですよ。でも公式戦出てなかったから、「出てないやん、無理やろ。」って言われていたんです。
2年生からずっと出てるキャッチャーの人がいて、キャプテンはその人だろって言われていたんですよ。
でもずっと、朝から晩まで「キャプテンやるわー」って口に出してみんなに言っていたので、それが監督まで届いたのかなと。
キャプテンになる前までは、公式戦とかは全く出ていなくて、バッティングもそんなにだったんです。高校3年生でキャプテンになってから、ホームラン17本くらい打ったんです。それまではホームランを打ったことがなかったんですよ。
キャプテンになってから、自分の中でも視座が高くなって、結果もついてきたって感じです。
ー 光星学院でのキャプテンをやっていた経験はその後の人生に生きましたか?
澤田:早速ですけど立教大学の野球部に入学するのに生きましたね(笑)
立教大学の経営学部ってリーダーシップを育成する学部なんですよ。キャプテンをやっていた、160人をまとめた、それで甲子園に出たっていうことは入学する時点でも大きかったですね。そういう高校でキャプテンをやっていたことで、大学進学後や社会人になってから、信頼してもらえることが増えたので。僕はあまり意識してなかったですけども、思っている以上に、そういった活動をしてきて良かったと感じます。
ー 先程キャプテン時代の話でお伺いした、言葉に出すことの大切さについて。目標や決意などを掲げても口に出せない人は多くいると思います。そこで、言葉にする重要性についてお聞きしたいです。
澤田:自分自身は、光星学院に行ったからそういう人間になったのかなと思います。
関西人が6〜7割で、自分を強く持っている人たちが多くて、そのままだと自分が潰されてしまう。全然芽が出なくて、光星学院にきて応援するだけの人になっちゃうのが本当に怖くて。
キャプテンになりたいって口に出していたのもそうだし。練習試合の時も「⚪️本打ってくるわー」とか、練習終わりに「ティー200本打つわー」とか。そういうのも毎日言うようにしてました。
日頃やる前に口に出していると、全部じゃなくても、どれかは結果はついてくると思いますし、それだけでも周りの評価って得られると思うので。そういうのが重要かなと思います。
僕も最初は全然そういう子じゃなかったんですけど、小中でキャプテンをやってて、成長した実感があったので、高校でもやりたいなって言うのがあって。
例えば、右方向に長打が打ちたいとか、ずっと言っていれば、どう言う練習をすればいいかとか指導者の人も教えてくれると思うんですよ。
なので何か一つ軸を持って、どんどん口に出していけば、自ずと人は集まってくるので、そう言ったことを絶対にやったほうがいいと思います。
ー 野球留学を実際にされた澤田さん。地元ではない場所で野球をすることについて、澤田さんの意見をお聞かせください。
澤田:僕の父も大阪、沖縄、東京から選手を取っていたので、自身としては批判的な意見はないです。なんでこういう状況になるかって言うと、県内の良い選手が県内の良い高校に流れてしまうからなんです。そうなると、青森県で良い選手が取れないから、県外の高校からってなるんです。単純に人数が少ないので。
中学生の時に目立っていた選手は県内の強豪校に行くんですよ。そうなると他の学校は、どこから選手を取るかってなったら県外しかないんですよね。それは正直しょうがない部分であるかなと思います。
野球留学自体は、選手個人が甲子園に出るためというのと、良い選手が県内の公立校に行くことがあるので、しょうがないかなっていう部分はありますね。
ー 大学の進学についてもお聞かせください。光星学院から立教大学というキャリアはあまり聞かないですけど、どういった経緯で進学が決まったんですか?モチベーションや、勉強はどうしてたのでしょうか?
澤田:高校2年生の終わりまで、勉強は全くしてなかったです。
3年生になって大学進学を考えた時に、父親が東北福祉大だったので、自分も東北福祉大に行こうかなと思っていたんです。でも、父親と同じルートを辿るのは嫌だなぁと思って、東京行ってみたい、東京で野球がしたい、もっとレベルの高いところでやってみたいって思ったんです。それで、東京六大学が最高峰のレベルっていうのをインターネットで見て、ぼんやりとここに行きたいなぁって思ってました。
高校時代は、最後の夏の地区大会の決勝で三沢商業に延長12回で負けてしまったんですよ。そこから毎日塾に通いました。引退して練習がなくなったので、コーチに許可をもらった上で、学校が終わって5時から9時くらいまで塾に通って、11時くらいに寮に戻ってくるみたいな生活をしていました。
入学には、自由選抜って言う、面接と小論文と英語の三つで試験を受けられる制度があったので、それで入学できるかなと思って、英語だけ勉強してました。
ー 野球の熱量をそのまま勉強に注げたのですか?
澤田:それも言霊で、「立教にいく、絶対受かるよ」ってずっと言っていたら、自ずと先生方が、授業後に特別に勉強を教えてくれました。
ー 普通の高校生のように過ごしたい、といった憧れはなかったのですか?
澤田:なかったですね。大学とか高校とか卒業したら遊べると思っていたので、憧れてはいなかったですね。